昭和48年02月23日 朝の御理解
御理解 第16節
「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」
金光大神の道はと仰っておられるが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞと言う事は、どう言う事だろうか。金光大神の道を一口で言うなら、どう言う事かと言うと実意丁寧神信心の道だと思うのです。実意丁寧神信心の道。、いわゆる実意一つがしかも天地を貫くという程しの道だと思うです。素晴らしい事です。実意丁寧神信心それが他になぁにもない理屈はない。
あの世で助からなければならない為に、こういう因縁因果の為にと言う事もなからなければ、キリスト教的に言う人間の原罪と言うですか、人間がこういう悪い事をしておるから、この事が人間が永世苦しまなければならないのは、こういう原因があってからだと言った様なのが、キリスト教的なものですね。この世では仕方がないからあの世では極楽往生させて貰わんならんと言う様な事ではない。そう言う事はもうどうでもよい只どういう場合であっても実意一つを貫いて行けば、天地に通うという道なんである。
どういう例えば難儀、教祖様の場合は七墓築くという程しの、様々な難儀が続いております。どういう訳で難儀が起るのかという事を、詮索しておられませんもんね。只々氏子の眞の足りない事。所謂人間氏子で相分からずどこにお粗末が、御無礼があるやら分かりませんと言う、只頂き方をもって平に平にお詫びをする姿勢で、神様に接しておられます。これ程しの実意これ程しの丁寧な事は。
人間としては出来まいと思う程しの事をなさり乍らも尚且つ、人間凡夫の事で相分かりませずに、どこに御粗末御無礼があるやら分らんとして、お詫びをしぬいておられます。しかもそれは悪神、邪神と言われる程しの、金神様へ向ってですらそれであったと言うこと。そういう実意な一心というものが天地を貫いた。金神様と思うておった神様が、天地金乃神様という神様に、現われて見えられると言う事は。
天地を貫かれたと言う事なんです。それはお試しと言った様な言葉で、どんなに試しても試しても、人間凡夫で相分からずどこに御粗末、御無礼があるやら分らんと言う頂き方なんです。もう理屈はないです金光様の御信心はだから。そこから天地の親神様が感動ましますようなです。もうほとほととこの氏子には、もう試しようがないという程しの、例えばそういう難儀な時にです。愈々哲学的な勉強をなさってから、元つ罪がこういう罪の元が、こういう難儀になってきたとか。
この世ではもう仕方がない。この難儀は難儀として甘んじて受けて、そしてあの世で極楽往生させて貰わねばならんと、いったものではないと言う所にです。もう金光教の信心の生き生きとしてね、生き生きとして天地と共にです。助かって行けれる道というものが、ここにハッキリそういう道なんです。だから無常の風が時を嫌うと言う事に迄なってくる訳です。なぁにも他にはいらんて、もう他にいうならば秘訣もなからなければ、色んな患わしい、それは学問的にですよ。
いろんな仏教的とかキリスト教的に詮索すれば、様々な論理というものが成り立ちましょう。けれどもそう言う様な事は、全然最近こゝで使われておる、教祖様のお言葉というものは、太陽のようなものであって、どういう難儀の元というものがあってもです。それは消えてしまうという程しのもの。実意丁寧神信心、その一心一筋がです天地を貫く。そこに神様がほとほとと感心なさる。神様がほとほとと、こんな氏子見た事がないと言われる程しの感動が、教祖様に伝わってくる。
その教祖様に伝わってきた喜びを、教組は和賀心と教えられた。和らぎ賀ぶ心と教えられた。だからこの心一つでです、此の方の道は喜び一つで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんという程しの、大変な事になってきた。そこでです、金光大神の道はと仰るのは、そういう道なのですから。どうしても私共の心の中に生き生きとしたものが、なからなければならんのです。
例えば私がここからこうやって、朝の御祈念の皆さんのご様子を見せて頂いておると、もう生き生きとして、御祈念なさっておられる方がある。もうそれこそ生き生きとして、お広前に入って見える方がある。あぁあち言うごたる風でもうほんな、こうその辺の所がね。お広前に入ってくるでもゆっくりゆっくり、御祈念な始まっとるとに又御祈念せにゃん、今からと言うごたる風な態度で入ってくる方があるです。可笑しいです。もうお広前では拍手が鳴りよる。いや御祈念が始まっとる。
もうそれこそ息はずませるような生き生きとした、お広前の入り方というものが出来なければ、その人の心の状態は駄目だと思うのです。初めから駄目ですそれでは。眠かつ堪えて寒かつ辛抱してから、今日も又朝参りせんならんと言った様な感じで、お参りをしてくる人がおる。それこそ心が弾んで生き生きとして、合楽合楽と通うて来る人。皆さんがあそこでお手を洗って、そしてこゝまで向うてこられる、自分の姿というのを見てご覧なさい。果たして嬉々としたとか生き生きとした。
神様への向い方というものが、そんな事ではです。神様へ折角向われても、よい御祈念が出来る筈がありませんです。それこそ胸の高鳴りをじっと押さえて、そして御神前に例えば進むと言ったようなね、そういうものが、私共の心の中には湧いてくるように頂けなければ駄目です。ある人が言われた。この長い玉砂利の上を歩いてこちらへ向って来る。もうそこから襟を正す気持ちと言うか、神様へ向う姿勢が出来るという意味の事を言われた。毎朝のことだからです。
そう言う所に工夫をせんと、本当に折角のお参りが値打ちのない朝参りになってしまうです。朝の清々しい生き生きとした、そういう雰囲気というものに、私共の信心が、便乗させて貰うておらなければ駄目です。昨日福岡の古屋さんの所の、一年の式年祭がございました。いわゆる帰幽祭です。本当に有難い事でした。末永先生なんかは、昨日はお月次祭だったそうですが、そのお月次祭を終えられてですから、船では間に合わんから飛行機で、こちらへ夕方着かれました。
だから末永先生の見えるのを待って、お祭りを奉仕させて頂いたんですけれども。神様へお礼を申させて頂きよりましたら、催されてと言う事を頂きました。催されて。私はその催されてと言う事の意味の広さ深さと言う事を、何とはなしに言葉には表現出来んけれども、感じたんですけれども。その前の前夜でございした。私は夜中に必ず起きてお広前にお礼に出て来るんです。そしたら茶の間の方でえらい賑やかな声がしよりますから、ちょっと覗いて見ましたら。
末永建郎先生、それから弟さんの紀久男さん、それから田主丸のむつ屋の信司さん、そしてうちの光昭と四人で、何か一生懸命お話をしておる所でした。所謂三人兄弟と光昭が入って、あらあんたどんこげん遅う迄、何をしよるかと言ったら。今日は古屋の叔父の明日の御霊さんのお祭で、今日は前夜祭でございますと言うてから、大変叔父さんが好きであったものを、色々買い集めて来とる中に、コ-ヒ-の大変上等なコ-ヒ-を買うて来て、そのコ-ヒ-を頂ながら、叔父さんを偲ばせて頂いておる。
いわば前夜祭と言うて、お祭りをする訳じゃないけれども。言わばそういう雰囲気の中に、そんなら私もかてて貰おうかと言うて、明日に控えておる一年の式年を、御霊さんのことども話したり、偲ばせさせて頂き乍ら昨日のお祭りだった。いわゆる催されてきておる。そういう例えば催しの中に、もう前の日から待ちに待つと言った様なね、お祭りという事は待ち合う事だと。御霊様が待ってお出でられる。御霊様も前の晩から、何とはなしに生き生きと、浮き浮きとなる程しのものを感じられるであろう。
前の晩からそういう甥達が、明日の御霊様のお祭りをと願っておる。そういう催しを受けてお祭りが有難い事になってくる。だから催しと言う事は、良いという意味だけではない。例えて言うとね、お芝居なんかでまぁ幽霊が出てくるとする。するとやはり何とはなしに じめじめとした雰囲気を、まず作らなければならない。ヒュ-ドロドロドロドロと言うあの音楽に乗って、しかも柳か何かがあって、そういう雰囲気と言う、そういう雰囲気に、催されなければ幽霊は出て来られん。
はぁ三味線太鼓で賑わいよる所には、絶対幽霊は出ちゃ来ん。そん迷うたという幽霊はですよ。迷うたと言う様な幽霊はです、そういうじめじめ雨の降るような晩に、何とはなしに生臭い風の吹いて来るような感じの、そういう催しに催されて幽霊が出てくるようにです。だからそれとは反対の事。有難い事でも有難い生き生きとした、言わば無常の風が時を嫌わすという程しのものはです。例えば無常の風は吹いて来よっても、幽霊ん出るごたるような雰囲気があってもです。
生き生きとした喜び、生き生きとした実意をもっての、雰囲気と言う。そういう催しに催されておかげを受けた。、いわゆる無常の風も向うに吹き飛ばしてしまう程しの、おかげになってくる訳なんです。ですから金光大神の道はですね、そういう道なんです。金光大神の道はと仰るのは。ですから本当に、朝参り的な生き生きとしたもの、そこから金光大神の道は始まるのです。それに、目こすり目こすりのごたる感じでですたい。鞄なこうやってぶら下げちから、入って来る人がある。
こう散歩しよるごたる。ぶらぶらもう御祈念な始まっとる。そしてとてもとてもそげな事であって、良かろう筈はないです。もうはっとするんだったち言うなら、小走りでせにゃんぐらいおられない様なものが、なからなきゃ駄目です。あゝ又今から拝まにゃん、ち言うごたる風で座りよる。私共はそういうですね、雰囲気を大事にしなければいけません。私が朝の御祈念に三時半から、四時の御祈念だから、四時五分前に出てくりゃよかです、本当言うたら。ぎりぎりでんよか訳です。
けれどもです私はそういう尊い催しというものをです、いつも毎朝感ずるです素晴らしい。そういう催しを感じながら、御神前に出るんです。とても御祈念中に眠るてんなんてんち、それこそ出来る筈がない。金光大神の道というのはそういう道。そんならそういう道が、どこから生まれて来るかと言うと、実意丁寧神信心所謂実意です。実意とはそんならわがままな心、横着な心と言う様なわがままな心、横着な心という様な心を除いといて行く。どこ迄も人間凡夫で相分からず。
どこにお粗末があるやら御無礼があるやらという姿勢です。そこからそういう思いが実意な心が天地を貫く、天地に交う。それが天地の感動となって、生き生きとした喜びが心に感じられる。その喜びをもって御祈念をさせて貰う。その心をもって今日一日の開幕、幕が開くと言う事になる。そういう生き方の上にです。無常の風が吹い来よっても、無常の風を向うにいうならば、押し返す程しの働きがあると言う事。
本当に金光大神の道というのは、素晴らしい道だなと改めて思う。実意一つが天地を動かす。天地を自由にする程しの働きが生まれて来る。そこにはですどういう様々な、災難難儀といった様なものがあってもです。その原因はあなたの名前が悪いから、あなた方の家相が良くないから、あなたの判の相が悪いからと言う様な事にこだわって、それを究明していくとです。成程と言う様な事に、思い当る事があるかも知れません。それぞれに学問的な説明がなされる位ですから。
けれどもそういうものが、いくら寄せ合ってもです、実意の前に適するものはないという事です。どういう難儀がそれこそ、七墓築く程しの難儀が続いておってもです。しかも実意の限りを尽くしておっても、尚且つ人間凡夫の事で相分からず。どこにお粗末御無礼があるやら分らんと言う姿勢をもって、神様へ向って貫いておられたと言う所に、お道の信心があるのです。
それを実意丁寧神信心と、こう言われておる。その実意丁寧神信心を、天地の親神様も、ほとほとと感心される。そこに天地の感動がこれに伝わってくる。その感動を和賀心と仰った。この和賀心の前には、一切をおかげにせずにはおかんという働きがある訳です。無常の風と言うのはです。それこそ私共が作る、じめじめとした又は何と言うでしょうか、さっき御霊様のお祭りの事から、幽霊の出てくる雰囲気と言った様なものを、言った様にです。無常の風がヒュ-ドロドロで、吹いて来よってもです。
こちらの気持ちがです賑やかに、こちらの気持ちが生き生きと、有難いと言う事になれば無常の風は、成程時を嫌わす程しになってくるのが、金光大神の道だと言う事が分かるのです。だから本当、私を中心としてです。有難いという催、有難いという雰囲気、生き生きとした喜びの雰囲気がです。家庭の中に持って帰らなければ、駄目だと言う事が分かります。家庭だけではありません。お互いの生活の現場にそういう実意丁寧の雰囲気というものが、なからなければいけないと言う事ですね。
どうぞ。